高木聖鶴が死去(死因・病名)。かな書家として文化勲章受章者の経歴

偉大な芸術家が、
また亡くなってしまいました。

かな書家として、
日本屈指の実力を誇った、
高木聖鶴さんが死去しました。

全国で最も有名な書道会、
「朝陽書道会」を牽引し、
日本芸書員最高顧問など、
数々の偉大な経歴を辿って来ました。

日本中の書道家が、
今夜は「高木聖鶴」の名前を書くことでしょう。

高木聖鶴が死去(死因・病名)

高木聖鶴氏(たかき・せいかく、本名郁太=いくた=書家)24日午前4時32分、肺炎のため岡山県倉敷市の病院で死去、93歳。

 葬儀は近親者で行い、「しのぶ会」を4月28日午前11時から岡山市北区駅元町1の5のホテルグランヴィア岡山で開く。喪主は長男で書家の聖雨(せいう、本名茂行=しげゆき)氏。
引用元:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170224-00000069-jij-soci

今日の朝方に死去されたそうですが、
その死因は肺炎です。

岡山の倉敷にて、
安らかに眠られて、
地元での最後は美しいです。

大正12年に生まれて、
戦争を経験されながらも、
日本人としてのかなの美しさを追求され続けました。

93歳まで書道を極め続けた生き様は、
多くの書道家の刺激になっていることでしょう。

日本人の誇りを伝えられる、
数少ない1人だっただけに、
その死は悔やまれます。

高木聖鶴は「かな書家」として文化勲章受章者の経歴

大正から平成までに活躍された、
その素晴らしい生き様は、
数々の人を勇気づけたことでしょう!

1923年生まれ。旧制高梁中(現高梁高)を病気で中退。父の経営する証券会社で働きながら、「独学でできる生涯学習を」と書の道へ。戦後、かな書の大家内田鶴雲氏(78年没、津山市出身)に師事した。

平安期のかなの繊細で気品のある美「あえか」を理想に、古筆を徹底して臨書。同時に王羲之ら漢字の古典も研究し、優美さと鋭さを併せ持つ書風を確立した。古里の自然の情感を取り入れた生命感あふれる線で、独自のかなの美を追究した。

日展を中心に活躍し、82年に日展会員。91年に「古今和歌集抄」で日展内閣総理大臣賞、95年には「春」で日本芸術院賞。2006年に文化功労者となり、13年には岡山県在住者として初の文化勲章を受章した。引用元:http://www.sanyonews.jp/article/492603

岡山県民の誇りとして、
永遠に高木聖鶴さんの名前は受け継がれることでしょう。

かなの美しさに新たな味を加えたとして、
日本人誰もが憧れる「生きた字」を書き続けました。

毎日、何気なく書くひらがなですが、
実は、いろんな色がつけられる、
自分だけの最高の芸術だと気付かされます。

高木聖鶴さんの功績を見てると、
自分も、もっと魅力的な、
ひらがなが書けるようになりたいなと思います。

これからも永遠に高木聖鶴さんが、
愛され続けることを祈ります。

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